フランスの映画監督、ジャン・リュック・ゴダールが死亡しました。91歳でした。
映画のつくり方をラジカルに変え、一世を風靡した監督です。その衝撃は、絵画でいえば写実の世界に突然キュービズムが登場したようなものだったでしょうか。
でもぼくは彼の映画ではなく、死に方にやわらかな衝撃を覚えました。
病死ではなく、自殺幇助死だったので。
詳細は不明だけれど、おそらく医師が処方してくれた「自殺薬」を自らに投与したのでしょう。自殺幇助が認められているスイスで、13日に亡くなりました。
13日付ニューヨーク・タイムズによれば、高齢のゴダールは「いくつかの病気を患っていた」ということです。電話インタビューに答えたゴダールの長年の法律顧問、パトリック・ジネールさんはいっています。
「彼はあなたや私のようには生きられなくなった。はっきりとした理性的な判断で『もう、これでいい』といった」
そして自らの生を断った。
かねて尊厳とともに死にたいといっていたといい、実際その通りの最期を迎えました。
ふたつのポイントが浮かびます。
彼は、医者の助けはあったけれど、最後は自ら命を断ったということ。
それは明確な理性的判断にもとづいていたこと。
おそらく、もうこれ以上生きていても自分にとっては意味がない、あるいは耐えられないと判断し、その判断にもとづいて薬を飲むか注射器のスイッチを押したのでしょう。
そのような最期を迎えられたゴダールを、ぼくはうらやましいと思います。
日本ではそんな選択はありえない。どんなに死にたくても医者が、病院が、社会が、死なせてくれません。延々と生かされてしまう。
いちばんやりきれないのは、そこに理由がないことです。
理由どころか、議論がない。生きること、生かすことが、どんな場合にもすべてに優先する課題となり、それ以外の選択はゼロ。
一足飛びにスイスのようになってほしいとはいわないけれど、せめてカリフォルニアやカナダのように「医療幇助死」(MAID, Medical Aid In Dying)くらいは選択できるようになりたい。
人生の最後を、延々とただ生かされ、「長引く死」を生きなければならないのはたまらない。それよりもっとたまらないのは、そこで誰もが思考停止していることです。
いや思考放棄というべきでしょうか。
(2022年9月15日)