秩序と逸脱をめぐって、北海道浦河町の精神科と現代思想のつながりを書いてきました。
書きながら、途方にくれています。こんなテーマで書く力が自分にあるとは思えないのに、どういうわけか書きはじめてしまった。いま書かなければ、大事なことが消えてなくなってしまうという思いにかられて。こういう衝動が、つまりは逸脱なんだろうと思いながら。
で、大事なことっていったい何なのか。
これはたくさんあるから、ぜんぶ並べたら百均の売り場になってしまいます。まずは話の前提というか、確認事項からはじめましょう。
それは「浦河は現代思想に先立つ」ということです。
現代思想があって、浦河ができたわけではない。浦河の精神科は20世紀フランスの哲学も脱構築も、誰も何も知らないところで40年の歴史をつくってきました。両者につながりがあるというのは、ぼくが勝手にいっているだけのことです。
けれどぼくの頭のなかでは、この二つが重なっている、親和性が高い。
現代思想をつらぬくのが脱構築の概念であるとするなら、浦河の精神科もまた脱構築をくり返してきました。
現代思想が既存の概念や常識、多数派や主流を相対化するというなら、浦河の精神科もまた多くの場面でおなじようにふるまってきました。
そういう意味での重なり、親和性の高さ。これを見逃すことはできない。
たとえば哲学の巨人、ジャック・デリダについて、千葉雅也さんは『現代思想入門』でこう書いています。
「「本質的なことが大事だ」という常識をデリダは本気で掘り崩そうとするのです。これこそデリダが画期的だったところです」
本質を疑う。本気で。
そういうことなら浦河の精神科も同様です。ぼくはこういいましょう。
「浦河の精神科は、治さない医者が悩む患者をつくる。これもまた画期的なことです」
医者は患者を治すという常識、本質が、浦河では「いったん留保」される。そして治すことについて本気で考え、その概念を掘り崩したところで、精神科医の川村敏明先生は患者を治すのではなく、悩んでもらおうと思うようになりました。これ、いかにもデリダ的だといえるのではないでしょうか。
いや、デリダが川村先生的だというべきかもしれない。
どうでもいいような話ですが、もう少しつづけます。さらにその先へと逸脱します。
(2022年7月18日)