自分は半分

 先住民の声を聞くか、聞かないか。
 オーストラリアで今週末、国民投票が行われます。アボリジニといわれる先住民の声を議会に反映させるかどうか。オーストラリア社会はおそらくノーと答える。多くの人にとって敗北かもしれないけれど、ぼくは別の見方をしています(Australia Must Finally Listen to Its Indigenous People. By Thomas Mayo. Oct. 9, 2023. The New York Times)。

 先住民の問題は、過去の虐殺や差別、抑圧をどう見るかです。アボリジニはいまなお社会経済的な地位は低く、平均寿命が他のオーストラリア人より8年も短い。それを変えるには、まず彼らの存在と声を憲法に書くべきだというのが推進派の動きでしょう。
 一方反対派は、進歩派が気取ったことをいうんじゃないと反発しているようです。こっちが多数派らしい。

 アイヌ民族を「土人」といってきた日本のぼくに、オーストラリア人を批判することはできません。それより、国民投票のかなたからはもうひとつの声が聞こえると思いました。
 作家のトーマス・メイヨーさんが、新聞の寄稿で先住民の伝承を紹介しています。
 太古の、「夢のとき」からはじまるという先住民の口頭伝承は、数百世代にわたる物語を受けついできました。
「この古い大陸を守ってきた私たちの知は、いまだからこそ意味を持つ。2019年からオーストラリアではひどい山火事が起きている。私たちはそんなことを起こさなかった。数千年にわたり持続する文明を持ってきた」

 先住民であるメイヨーさんたちは、「文明論」の立場から声をあげています。
 西欧近代は、個人主義と疎外の文明だった。オーストラリアの先住民は、大家族で分かちあい、与えあう暮らしを守ってきた。その日とれたものを、地面に掘った窯で料理し必要なだけ食べる。歌と踊りで暮らしを祝う。
 もっとも大事なことのひとつは、自分たちはすべてモイティ(moiety)、すなわち「半分なのだ」という捉え方だといいます。半分、完全ではない、完成されていない、あと半分がなければ成り立たない、そんなふうな思想でしょうか。自分も、親族も、この世界のすべても。
 さすがアボリジニ、おなじ大陸に6万年つづく世界最古の文明、その深さです。

 アボリジニの社会にも、幾多の欠陥があったでしょう。西欧社会とおなじように。でもそこに、そういう世界観が守り伝えられていたことは知っていてもいい。あるいは、アイヌの世界観、縄文人の世界観。まねすることはできないし、そこにもどることもできないけれど、ぼくらはそこから来たことを覚えているべきでしょう。快楽と利便の日々にあって、なお一瞬でも謙虚な存在になるために。
(2023年10月12日)