親切には効きめがある

 先週書いた薬物「安全センター」について補足します。
 安全センターは、麻薬などの薬物をやめさせるところではない。安全な摂取を進めるところです。見方によっては危険な薬物を「勧めて」いるかのようです。なぜそんなことをするのか、多くの人は疑問に思うでしょう。でも依存症という現象については、これがもっとも効果的なアプローチだという理解がヨーロッパやアメリカでは広がりました。

 いくつもの研究がこの動きを支えています。そのひとつが先週マイア・サラビッツさんが紹介したアメリカの医学誌JAMA(Online)の論文でした。ニューヨークにできた安全センター(薬物過剰摂取防止センター)は、けっして薬物使用を「勧めた」ことにはならず、地域の犯罪も増えていない。サラビッツさんはいいます。
「安全センターを酒場の乱痴気騒ぎと見る人がいる。酒を飲め飲めという代わりに薬を打て打てといってるところだと。しかし現実のセンターは静かでくつろいでいる。ほかでは歓迎されない人が、ここでは歓迎される。この環境は依存からの回復になくてはならないものだ」
 米国立衛生研究所のノラ・ボルコウ博士は、安全センターについて味わい深い表現をします。
「親切には効きめがある。罰するよりも親切にすることで、得るものはずっと多い」

 根幹にあるのは、薬物摂取を犯罪と見ない視点でしょう。
 麻薬におぼれるのは本人がだらしないからで、強い意志でやめればいいというのは依存症を知らない人です。依存症の核心には衝動があり、それは多くの人にとって制御できない。さまざまな経験からたどり着いたのが、ハームリダクションであり安全センターだったのです。

 そんなことをするより、はじめから麻薬を禁止すればいいというのが日本の考え方でした。
 それで安全な社会が実現できたようだけれど、その代わりに失ったものは大きい。
 失ったものというのは、自分の生き方は自分で決める自由ではないでしょうか。ぼくらはその自由を、あらかじめ国によって奪われている。アメリカにもヨーロッパにもはじめはそんな自由はなかったけれど、いまは麻薬の害よりも人間の自由を重く見ている。彼らはなぜ、どのような議論を経て麻薬、薬物よりも自由を選んだのか。あるいは、日本ではなぜそういう議論が起きなかったのか。

 薬物より自由を選んだ欧米、社会防衛を優先した日本。それぞれの社会にはそれぞれの選択があっていい。けれど日本の真の問題は、「議論」そのものがすっぽり抜け落ちていることです。議論しないことによって、ぼくらは自分の生き方を自分で決める自由を、はじめから放棄していたのではないか。
 社会と薬物のかかわりについての二つの対照的な流れを、そんな思いを抱きながらぼくは見ています。
(2023年11月21日)