ミーティングの濃さ

 降りていくミーティングは、どのようにすれば可能なんだろう。
 この数週間、ときどきこんなことを考えています。
 ぼくはずっと北海道の浦河で、精神障害にかかわるたくさんのミーティングを見てきました。精神障害者と、彼らとともにいる人びとの集まり、話し合い。そういう“浦河ミーティング”になじんでいると、本州に帰り、精神障害とは関係のないあれこれの集まりに出ていると違和感を覚えることがあります。
 これはいったい何なんだろう。考えて、だんだんと思うようになりました。
 降りてないからじゃないか。

 以前、浦河ひがし町診療所の「気持ちミーティング」について書きました。精神障害者といわれる人びとが、自分の気持ちを話し合う集まりのことです。仲間にいわれたことでイライラするとか、引っ越しがめんどうでパニックになったとか、映画俳優にふられた妄想で落ちこんでるとか、情けないみじめな話がたくさん出てくる。そういう話にみんなが笑い、場がなごみます。
 弱さ、みじめさ、情けなさが人びとを結びつけている。それが降りてゆくミーティング。

気持ちミーティング(浦河ひがし町診療所、2020年)

 ふつうの、健常者のミーティングはこうはなりません。
 地域の、職場の、あるいは知人友人との会議、会合、打ち合わせ。そこでは何ごとかを決め、ホウレンソウ(報告、連絡、相談)があり、連帯や結束が確認される。やって来た人が、何かをなしとげた気になる、それが上りゆくミーティングでしょう。それは大事だし必要でもある。なくていいとは思いません。でも浦河ミーティングを知っていると、上りゆくミーティングにはしばしばもの足りなさを覚えてしまう。
 まったくベクトルのちがうこれら二つのミーティングを、比較すること自体が無理筋だとは思うのですが。

 上るか降りるか、そのベクトルよりもうひとつ、ぼくが考えていることがあります。
 それは、降りてゆくミーティングは「祈り」と地つづきだということ。
 この場合の祈りは、必ずしも宗教的な祈りではありません。自分ではどうすることもできない境遇におかれた人が、そこからどうにかして逃れたいとあがき、でもどうにもならないと悟ったときに抱く思い。精神障害だけでなく、難病や災害、戦乱など、さまざまな形で、どうにもできない境遇というものは降りかかってくる。そこで、いつでも誰でもがそうするわけではないけれど、人は祈るようになる。

 そういう祈りがあるとき、あるいはそのような思いがあるとき、人の集まりはただの集まり以上の濃度があります。その濃さが、降りていくミーティングを可能にするのではないか。最近ぼくはそんなことを思うようになりました。
(2023年2月13日)