世間に与しない

 成果をあげても、なぜそれが成果にならないのだろう?
 この1週間、浦河ひがし町診療所で何度か考えるようになりました。
 診療所のスタッフが手間ひま時間をかけ、精神障害者、というか生活困難者というべき人たちの暮らしを以前よりずっといいものにしている、難儀な境遇から一歩も二歩も抜け出すのを手伝っている。すごい、よくそこまでできたねと、ぼくは感心するけれど、どうも世間一般はそれを「成果」とは見てくれない。それはなぜか、ということです。

 たとえば、訪問看護先の認知症のばあちゃん。
 自宅はかねてから相当なゴミ屋敷、というか家全体がトイレ。玄関でもう異臭がするし、なかに上がれば床はベトベト。掃除は拒否するし風呂にも入らない。
 その家で、いっしょに住んでいたじいちゃんが急死し、ばあちゃんはひとりで大声を出すようになりました。夜も昼も。不安と混乱のなせるわざでしょう。
 近所の苦情が激しくなり、どこかの施設に入れてくれと役場に訴えがいったようです。

 でもひがし町診療所は、近所迷惑だからという理由で施設に入れようとはしなかった。ばあちゃんをなだめすかし、時間をかけて信頼関係をつくろうとした。夜中に叫ぶのは本人も疲れるだろうからと、精神安定剤も用意しました。本人が自分で飲むのはむずかしいので、好きなヨーグルトに混ぜて飲んでもらいます。それで少し落ちつきました。

 規定の訪問看護のほかにも訪問する。看護師がすっと家に入り、ばあちゃんのすきをみて少しずつ掃除をする、ゴミを片づける。そういう“ボランティア活動”をくり返し、いつのまにかゴミ屋敷が見ちがえるほどきれいになりました。家がきれいになるとばあちゃんはさらに落ちつき、顔つきも穏やかになります。
 でもその日の調子によってはまだ叫ぶから、近所の「迷惑感」はあまり変わらない。
 依然として診療所には「なぜ施設に入れないんだ」という不満の声が、人を介して伝わってくる。

 世間から見れば、診療所は何もしていない。成果ゼロ。
 でも診療所から見れば、ばあちゃんは薬を飲み、ゴミのない家で以前より安心して暮らしている。「よかったね、これでしばらく大丈夫」とスタッフが笑っています。

 ばあちゃんのような”迷惑な人”は地域から排除する。それがいまの世の中の多数派でしょう。
 診療所はそれに与しない。でも正面からの抵抗はしない。自分たちが正しいと主張することもない。
 これでいいのかと迷いながら、できることをやっている。そうしてえられる「成果」は、世間にはなかなか見えないのだろうと思います。
(2022年5月17日)