揺らぐ動物の境界

 最近、よく思うようになりました。後世、ぼくらは孫やひ孫の世代にどう思われるだろうか。気候危機や増えつづける国の借金をなぜ放置したのか。なぜ声を上げなかったのか。それ対してぼくはどう答えるのだろう。
「少数派だったんです」
 ぼくはこう答えるんじゃないか。

 これは最近の「牛肉を食べたくない」気分と関係しています。牛肉を食べれば食べるほど、アマゾンの森林は破壊され、温暖化は進む。そんなのは大部分の人にとってはどうでもいいことだろうけれど、ぼくはそうは思わない。少数派なのです。
 さらにそこには、倫理という問題もある。
 ぼくらが食べる牛肉は、牛を殺すことによって得られる。その倫理はどこにあるのか。この議論を、コラムニストのニコラス・クリストフさんが述べていました(Turning the Tide on Animal Suffering. By Nicholas Kristof. June 10, 2023. The New York Times)。

ニコラス・クリストフさん

 クリストフさんによれば、動物保護は1971年、オクスフォード大学の学生が動物を尊重するのは人間の倫理だと訴えてはじまりました。はじめは動物の保護なんて「狂気の沙汰」とされたけれど、半世紀を経て次第に多くの人びとが受け入れるようになった。
 いまでは動物には一定の権利があると認められ、さまざまな形で保護が進んでいます。
 しかし巨大資本による残酷な食肉生産は変わらない。だから自分は、工場でできた肉は食べないとクリストフさんはいいます。
「では人道的に作られた肉なら食べるだろうか。私は狩猟で得られた鹿の肉は食べるから、その可能性はある。タコが高度な頭脳を持っていると知ってタコも食べなくなった。でもエビはどうなのか?」
 時代により、社会により、境界は変わる。

檻で動かないよう飼育される肉牛
(Credit: Farm Sanctuary, Openverse)

 クリストフさんは、いまはまだエビも貝も食べています。でもどの動物を食べるか、食べないかは18世紀の哲学者ベンサムのいうとおりかもしれないといいます。
「問題は彼らに理性があるか、しゃべれるかではなく、彼らが苦しいと思うかどうかだ」
 その答えはつねに明確なわけではない。オイスターは苦しいと思うだろうか。人間に対してもどう倫理的にふるまえばいいかわからないときがあるから、貝についてなどわかるはずがない。しかしそうしたことについて考えあぐねるところにこそ、倫理というものはあるのではないか。

 ぼくの場合、このまま牛を食べつづけたら将来の世代におこられる、だから控えるくらいの気分です。気候危機でも動物の権利でも、ぼくは少数派でしょう。少数派であることがぼくの倫理かもしれません。
(2023年6月16日)