支援の形

 何なんだろう、何かちがう。
 先日「医ケア」のトークイベントを聞きながら、そう思いました。医ケアとは医療的ケアのことで、人工呼吸器や胃ろうなどによる医療的介護をさします。そういうケアが必要な“たいへんな子ども”を毎日、24時間、ずっと医療的な介助や介護をしながら育てている親と支援者が集まっていました。
 イベントにやってきたみなさんの苦労を聞き、そうした苦労を感じさせない強さと明るさに打たれました。
 違和感を感じたのは、ではどうすればいいかという話になってからです。

 くり返し出てきたのが、「親なきあと、この子たちはどうなるか」でした。
 これまでは親がなんとかしてきた。でも親が高齢になれば、子は施設に入れるしかない。そんな施設がどこにあるのか。生活介護を受けながら民間アパートで暮らす手もあるけれど、それができるのはごく一部。グループホームの数は少ないし、24時間十分なケアが受けられるかどうかわからない。
 将来を見通せない、さまざまな不安がありました。

 それまでの話に納得していたぼくは、このあたりからかすかな違和感を感じています。
 医ケア児を育てたこともなく、かかわったこともないぼくがこんなことを考えるのはおかしいかもしれない。でも、もうちょっと「別な考え方」もあるんじゃないかと思ったのです。そういうことを、会場の誰かが指摘してもよかったのではないか。
 それは「どうすればいいか」の前に、考えるべきことがあるということです。
 施設が必要だとするなら、その施設ってなんだろう、人を施設に入れるってどういうことだろう。法律が、制度が、役所が変わってほしいというなら、そこにはどういう考えが必要か。

 何をいまさら、っていわれますよね。
 そんなことわかりきってる。「誰もがその人らしく生きられる社会」、「多様性と包摂」。でも現実にはお金がないし人もいない、施設がない、多様性も包摂もかんたんには実現できないから、いまできることをするしかない。だから「どうすればいいか」でしょ。

 それはそうなんだけど。
 でも、です。そうしてみんなが、いまできることをしていくと、結局医ケア児を、マイノリティを、分離し隔離することにならないか。医ケア児だけの世界に閉じこめてしまわないだろうか。施設に、制度に、専門家に頼れば、どうしてもそうなってしまう。そこにぼくは懸念を覚え、違和感を抱いたのでした。
 すっきりした解決策を提示できるわけではありません。でも「別の考え方」について、さらに考えてみたいのです。
(2023年8月8日)