神経多様性

 当事者って、誰のことだろう。
 古くて新しい疑問がまた浮かびあがります。自閉症をめぐって。
 いまアメリカで起きている論争は、「重度自閉症 profound autism」ということばに集約されます。重度自閉症は、自閉症者を「重」と「軽」分断するからダメでしょという議論。でも重度を認めなければ彼らをどう支援できるのかと、議論、反論が行き交っています(A rift over ‘profound autism’ reveals a community’s deeper divide. November 18, 2023. The Washington Post)。

 論争は、議会報告をまとめる段階で浮びあがりました。
 アメリカには自閉症擁護法(Autism Cares Act)という法律があり、この法に基づいて自閉症への支援体制が議会に報告される。この議論の過程で再燃したのが、「重度自閉症」でした。
 自閉症自助ネットワーク(ASAN)は、重度自閉症という表現を拒否します。そのようなレッテルをはることは当事者の人間性や人権をおびやかし、自閉症の治療という、より抑圧的な方向に向かうとジュリア・バスコム会長はいいます。
 一方自閉症科学協会(ASF)のアリソン・シンガー会長は、自分の子どものような重度自閉症は特別なケアが必要だといい、そのための資源、つまり財政やスタッフの援助を求めている。重症であることを認めた上での、相応の支援が必要だというわけです。

 表面上は、重症者と軽症者のあいだの予算の奪いあいに見える。けれどこの論争には、他の病気や障害にはない哲学的なテーマがまぎれこんでいます。
 そのテーマを、近年関係者は「神経多様性 neurodiversity」ということばで捉えるようになりました。
 神経とはすなわち人間の脳で、それは多様な形をとり、正常と異常、健康と病気、障害はかんたんには決められない、またかんたんに決めてはいけないという見方です。重症と軽症という分類ですら、慎重でなければならない。

 典型的な例が自閉症でしょう。自閉症者のなかにはまったくことばをしゃべらず、自傷行為をくり返し24時間見守りが必要な人もいれば、大学を卒業し学者になる人もいる。一部の当事者は、これは病気ではなく自分の個性であり、治療なんてとんでもないといいます。
 こういう当事者が発言しはじめたことで、自閉症をめぐる言論は変わりました。核心には、誰が誰のために何をいっているのか、当事者は誰なのかという疑問がある。それが今回の「重度自閉症」論争になりました。

 神経多様性は評価すべきことなのか、そう見ているかぎり重症者、その家族の苦悩は救われないことに目を向けるべきなのか、議論は込みいってかぎりなく広がります。しかし議論がつづくかぎり、新しい方向が生まれる可能性はあります。これまでもそうだったように。
(2023年11月23日)