認知症の最期

 認知症になったら、どうやって最期を迎えればいいか。
 ニューヨーク・タイムズの「読者相談」で、こんなテーマが語られていました。これは自分自身の心配事でもあると共感します(My Husband Is Facing Dementia. Can I Help Him End His Life?. By Kwame Anthony Appiah. Oct. 6, 2023. The New York Times)。

 相談を寄せたのは、70代の女性でした。
 夫は最近メールが打てなくなり、運転しても道に迷うようになった。父親が認知症だったので、自分もそうなると覚悟している。父親は十数年間、家族にとってたいへんな重荷だったが、自分はそうなりたくないという。いずれ自殺したいから、楽に死ねる方法を見つけるなど手伝ってほしいといっている。どうしたらいいか。

 これに、倫理学の専門家が答えています。
 早まらない方がいい。認知症といっても安定した時期はあるし人生を楽しむこともできる。本人には認知症でも価値ある存在なのだと伝えよう。回答はこんな内容でしたが、酷な言い方をすれば回答とはいえません。答えようのない質問にあえてコメントしている。相談者の女性は、そうかなあ、とりあえず自殺は横においておいて、できる範囲で夫を支えるしかないかと思ったでしょうか。だめだこりゃ、と思ったでしょうか。

 問題の核心にあるのは、ひとつの冷厳な事実です。
 認知症の人は、自分で自分の死を決めることができない。
 難病や末期がんで回復の見込みがない人は、場合により自分で最期を決めることができる。決めないでいることもできる。でも認知症の人は、かりに法律で安楽死が認められていても最期を自分で決めることはできません。決めるどころか、何もできないし何もわからなくなる。
 困ったなあと思います。ぼくもまた父親が認知症だったので、いずれ認知症になるでしょう。症状が進んでどうしようもなくなったら、最期を早めてほしい。でもそれは不可能です。だからいまはせめて、楽しい認知症になるよう努力するしかない。

 ぼくはカナダなどで広く実施されているメイド(MAID、Medical Aid In Dying、医療幇助死)に興味を持ちつづけてきました。でもメイドのようなしくみがあっても、認知症はその対象になりません。あらかじめ生前に、じゃない、認知症になる以前に自分の最期の形を選択しておきたいと思うけれど、そんなことはできない。認知症がどんなひどい状態になろうと(そしてぼくはそれを何度も目撃してきたからこそ考えてしまうのですが)、本人はもとより、周囲の誰も「引導を渡す」ことができない。
 つらいというよりは、変な話です。
 百年前には誰にとっても自明のはずだった「人間の最期」を、いま誰も解決できない。
 とくに日本ではその議論すらもないことに、ぼくは困りはてます。
(2023年10月10日)