そこに見える人びと

 アメリカにも地域精神医療の理念はあった。
 精神障害者は病院にいるべきではなく、退院して地域で暮らすべきだという考え方です。そういう理念はあったけれど、過去半世紀、退院した患者はろくな支援を受けられないままほとんどがホームレスになってしまった。
 何を、どこでどうまちがえたのか。そんなことをあらためて考えたのは、アメリカ精神医学のパイオニア、ジョン・タルボット博士の訃報に接したからです(Dr. John A. Talbott, Champion of Care for the Mentally Ill, Dies at 88. Dec. 9, 2023. The New York Times)。

 かつてアメリカの精神医療は、精神科病院が中心でした。ケネディ政権のもとで脱施設化が唱えられ、患者の退院が進められた。地域で暮らす精神障害者を支えるために、1980年までに全国で2千か所の精神医療センターを作る目標が立てられたけれど、実際には半分も達成できず、多くの人が病気を抱えたまま町に放り出されホームレスになりました。
 1984年のインタビューで、タルボット博士はいっています。
「当時の政策を推進した精神科医は、地域医療への幻想をあおり立ててしまったかもしれない。そのために私たち精神科医は信頼を失うことになった」

 精神障害者が、病院ではなく地域で暮らす。それは幻想ではなく実現可能な希望だったはずです。でも国は予算をつけず、社会の理解は進まなかった。いまホームレスの50%は、何らかの精神疾患を抱えているともいわれます。日本では精神科病院にいる人が、アメリカでは路上で暮らしているということでしょうか。

 国の施策を強く批判しながら、タルボット博士は出発点を見失うことはありませんでした。博士の仲間で、おなじく精神科医のアレン・フランセス医師はいいます。
・・・タルボット博士は地域精神医療のリーダーだった。地域精神医療とは、精神病は身体の不調というより社会の影響で現れるものであり、患者がどのような暮らしをしているか、どのような支援を受けているかを考え、対処するものでなければならない・・・
 精神病はほかの身体疾患とはちがって、ただ薬を飲めば治るものではない。入院していればよくなるものでもない。患者も家族も医師も、「社会の影響」のなかで、「暮らし」のなかで、対処しなければならない。

 治療ではない、暮らしだ、ということでしょう。
 それが実現できなかったのは、国の施策が進まなかったからであり、何よりも市民の理解がなかったからです。けれどぼくらはそれを笑えない。日本はいまなお30万の患者を精神科病院に“収容”し、タルボット博士の唱える地域精神医療の対極にありますから。精神障害者を隔離して見えなくする日本よりも、ホームレスという形で、いやでも市民が目にせざるを得ないアメリカの方に、まだしも可能性があるのではないでしょうか。
(2023年12月12日)