ろう児に遺伝子治療

 ついにここまできたか。
 感慨とともに驚いたのは、遺伝子治療が成功したというニュースです。人間の遺伝子を変え、遺伝性の病気を治す。何十年も前から研究はされながら、なかなか実用化されていない。その遺伝子治療が、なんと特別な聴覚障害の治療でできたそうです。AIが社会を劇的に変えるように、遺伝子治療は医療を劇的に変える。そういう時代に入ったと感じました(Gene Therapy Allows an 11-Year-Old Boy to Hear for the First Time. Jan. 23, 2024. The New York Times)。

 今回遺伝子治療の対象となったのは、オトファレンと呼ばれる遺伝子の異常で生じる、きわめてめずらしいタイプの聴覚障害です。このために生まれつき聴力がなかったモロッコの少年、アイッサムくん(11歳)が、去年10月アメリカの病院で遺伝子治療を受けました。
 アイッサムくんは、音を聴神経に伝えるうえで大事な働きをするオトファレンという遺伝子の1か所に異常がありました。このため音が脳の聴神経に伝わらなかった。

 これを、フィラデルフィア小児病院のスタッフは遺伝子レベルで治療したのです。正常なオトファレン遺伝子を用意し、これを無害なウィルスを使ってアイッサムくんの耳に送り込んだ。するとねらい通り正常な遺伝子は正常なオトファレン・タンパクを作り、これでアイッサムくんは「聞こえる」ようになりました。
 11年、音のない世界に生きてきた少年が突然、音を聞けるようになった。

 これはきわめてドラマチックな話です。でもそこでまちがえてはいけない。彼は聞こえるようにはなったけれど、音声言語が使えるようにはならなかった。音声を言語として認識できるのは5歳くらいまでの幼児で、11年も聴覚を止められていた少年はもはや音声言語を獲得できない。どんなに音声を聞いても、それは車の雑音とおなじなのです。

 じゃあ聞こえても意味はないのか。いやそんなことはありません。
 アイッサムくんには手話があった。手話を通して、音が聞こえるというのはどういう気分か、とつとつと話してくれました。
「突然音が入ってきて、最初はこわかった。しかし慣れてきたら楽しめるようになった。エレベータの音、人の声、理髪店で自分の髪を切るハサミの音。音楽というものを、理髪店ではじめて聞いた」
 彼はそれを、手話で父親に語っている。親子はおそらくホームサインとスペイン手話を使ったのでしょう。それをアメリカ人のろう通訳者が読み取り、ASL(アメリカ手話)にする。聴者の手話通訳がASLを音声英語にし、周囲に伝えたということのようです。三重通訳ですね。それだけの体制を組んだのは、遺伝子治療チームが音と言語のちがいをよくわかっていたからでしょう。

 アイッサムくんの遺伝子治療が成功したことで、アメリカではおなじタイプの聴覚障害の、もっと低年齢の子どもたちの手術が2例、まもなくはじまる予定だといいます。
(2024年2月2日)