声のない世界

 まずタイトルと表紙に引かれます。
 姜信子さんの『語りと祈り』(みすず書房、2023年)。語りと祈りを、結びつけるのか、結び直すのか、引き離すのか。どんな視点があるのだろう。
 そして製本。
 表紙がぼくに語りかける。おまえはこの本を読まなければいけないよと。なんと気になる絵だろう。斎藤真一さんという画家の、越後瞽女(ごぜ)をテーマとした作品のようです。

『語りと祈り』カバーの画(部分)
斎藤真一《杉坪山》(『越後瞽女日記』より)

 中身が、製本負けしているかもしれない。でもそれなりにおもしろかった。
 瞽女については、ジェラルド・グローマーさんの『瞽女うた』(岩波新書)というすぐれた著作があります。『語りと祈り』で姜信子さんは、瞽女だけでなく説経や山伏の祭文、はては浄瑠璃から浪曲に至るまでの口承芸能、「語り」を、語りのようなエッセイにまとめている。主題は語りそのものではなく、語りはなぜぼくらの社会から消えたのかです。
「瞽女が歌う場を失ったということは、私たち自身が主人公になって声を分かち合う場、声を放つ場を失ったということなのではないか」
 ぼくらは近代という時代に、語りを、声を奪われたのではないか。

 近代以前、人びとはそれぞれの土地で、村で、それぞれに「小さな神々」を持っていた。
 風土の神、土地の神、田の神、山の神、水の神。「人もまた鳥獣虫魚草木と同じ無数の命の一つ」。そういう「小さな神々」が、文字に捕らわれることのない、生きたことばで語りつがれてきた。つねに別な語りへと生まれかわりながら。
 語りのあるところには「無数の中心」があり、「無数の命の声を聴くもの」たちがいる。
 アニミズム、アナーキー。
「さらには、それは・・・確固としたアイデンティティを持つ「近代的個」の前提である自他の境、生死の境、進化論的な時空のありようを根底から揺さぶるものとして到来するのです」

 声や語りが、もしよみがえることがあるとすれば、それはどんな世界なのか?
「・・・私なりの答えを言うならば、ともかくもそのめざすところは、たった一つの中心、たった一つの真実に力ずくで縛られる世界ではないということ。
 無数の中心が遍在し、その場に根差した真実が中心の数だけ存在して、それが菌糸のように互いにつながり合い、生かし合うような世界であるということ」

 なんだかトトロ的だ。
「たった一つの中心」があるのではない世界。夢のようです。
 そういう夢に囚われた夢遊病者でありたい。夢まぼろしでもいい、小さな神々の声を聞いていたい。
(2023年7月11日)