対面での学びを

 どんなにデジタルが進もうが、人は人と顔を合わせる。
 生身の人間の出会い、会話なくして、人は人になることはできない。だから子どものスマホは制限すべきだし、高校までは学校への持ち込みも原則は禁止すべきだ。
 とまあ、突然えらそうなことをいいますが、「学校でのスマホ禁止」が進むアメリカを見てそんなことを思います( Schools should ban smartphones. Parents should help. November 25, 2023. The Washington Post)。

 禁止論のもとには、有力な材料が二つあります。
 ひとつは、ホワイトハウスのマーシー医務総監が、若者の不安と自殺の増加はソーシャルメディア、スマホにあると警告したことです。このブログでも書きました(5月25日)。
 もうひとつは、ことし7月に出たユネスコの報告「教育におけるテクノロジー」です。500ページを超す膨大な報告は、デジタル・テクノロジーと各国の教育を包括的に論じています。

ユネスコ報告「教育におけるテクノロジー」(2023年)

「デジタル・テクノロジーは、それが何をもたらすかではなく、どのような教育を生みだすかで考えなければならない。デジタル・テクノロジーは教師と生徒の対面での学びを支援するものであり、それに代わるべきものではない」
 教師と生徒の対面。ここだろうなあと、ぼくは思うのです。

 学校のスマホをどこまで許すべきか、禁止すべきかは、どの先進国でも議論になっている。しかし大枠を見ると、小学校では禁止、大学では野放し、その間の中学高校をどうするかが議論になっています。ヨーロッパが規制をはじめ、アメリカがつづこうとしているようだけれど、不思議なことに日本ではかつて厳しかった規制をゆるめようとしている。なぜなのか、考えずにはいられません。
 日本は生徒の安全、災害時の対策としてスマホを認める議論がさかんです。しかたがない気もするけれど、待てよ、とも思う。災害の現場で中学生がスマホを見たからといって、現実にどれほど役に立つのか。それより予測できない状況に置かれても、スマホなしで対処できる知恵と力を持つべきではないのか。少なくとも、つい最近まではみんなそうしてきたんだから。

 ぼくのなかには、やはり原点にもどりたいという思いが生じる。教育や学校という、人間が作られる場で、いちばん大事なのはスマホやネットではなく生身の人間との出会い、ぶつかりあいです。そのために人生の一時期、スマホを制限するのはけっして損な話ではない。
 ほんとうの問題は、スマホが人間社会より魅力的なことでしょう。言い換えるなら、魅力的な生身の人間がいまの若者たちの周囲にあまりにも少ないということでもある。
 スマホより、現実の人間のほうがずっとおもしろい。そのことを、ぼくらは若者たちに伝えられないでいます。
(2023年11月28日)