浮遊の精神科・5

 精神科と現代思想についてのまとまりのない議論が、はじめたときよりさらに散らかっています。このへんで一度、これまでの話をまとめましょう。結論ではなく途中経過、ジル・ドゥルーズもいうように、すべては生成段階の途中です。

 最初は依存症をめぐる議論でした。
 依存症の核心にあるのは依存ではなく、強迫だという指摘。それに符合するかのような依存症者の衝動性。彼らのわからなさ、得体の知れなさ、それはぼくら人間の本性ではないか、デフォルトとして誰にでも組みこまれているものではないのか。
 それはいったい何なんだろうということです。

 浦河の人びとは精神科という領域で日々、人間のわからなさに向き合ってきました。わからなさの前で精神医学には限界があるだけでなく、根源的な問題があると感じとっています。
 そこで精神医学を否定するのではなく、肯定するのでもなく、いったん判断を保留する。そしてそもそも精神医学って何なのかと問い直す。治療という名目で何をするのか、何が自分たちの役割なのかを、スタッフも当事者も考える。そういう思索を進め、彼らはそれまでになかった精神科の地平を切り拓きました。結果としてそれは現代思想がいうところの脱構築であり、秩序からの逸脱であり、正常と異常の反転だった、ということだったと思います。

 そんなふうに捉えながらずっと、ぼくは浦河の経験が現代思想にフィードバックできるのではないかと考えてきました。
 浦河の人びとがしてきたことは、たとえば「治さない医者が悩む患者をつくる」ことでした。病院の権力構造を崩し、浦河ひがし町診療所の内外で中心のない無数のつながりをつくりだすことでもありました。書かれたことばではなく話されたことばをもとに、つねにその場をしのぎながら、答えのないところで右往左往し、むしろそれを楽しむこころを持つ。そうした医療スタッフと当事者のあり方は、生身の人びとが地域に自らを開いていく生き方だったのです。

 そうした日々の営みのなかに、つねに人間のわからなさが現れます。
 このわからなさを大事にしたい。
 わからなさを無視したところで、「クリーンな社会」や「近代的な個人」は人間を追いつめ、深いレベルでの精神疾患を生みだしているのではないか。精神障害を異常とみなす社会こそ、人間のあり方から逸脱しているのではないか。そんなことを考えながら、ぼくはわからなさとの接点に浦河の精神科の、また現代思想の、尽きることのない可能性があるのではないかと夢想しています。
(2022年7月22日)