精神科の緩和ケア・4

 やわらかな共存。
 精神科のひとつの限界、難治性の患者と治療者のあいだには、こんな形があるのではないか。
 緩和ケアについての記事を読みながら、ぼくはそんなことを考えました。
 やわらかな共存は意訳で、もとのことばは「共感ある目撃」(compassionate witnessing)です。コロラド州の精神科医、ジョエル・イエガー博士がいうようになりました。

 患者の病気を治療するとか、生き方に介入するのではない。患者とともに存在し、患者への関心を失わず、かといって深く入りこむのではなく、共感を持って目撃しつづける、そんなイメージでしょうか。拒食症で死の危険があっても治療を受けたくないと主張する患者とのあいだで、医師である自分はそのような関係性を模索するとイエガー博士はいいます。

 共感ある目撃。
 これは大事な概念だと思い、もうちょっとわかりやすくしたいと思い、「やわらかな共存」という訳語をあててみました。
 でもイエガー博士は、自分のオリジナルな発想ではないといいます。
「それは神父がしてきたことだ。150年前の、何もなかったころの医者がしていたことだ。彼らはただベッドの横に座り、そこで誰かとともにいたのだ」
 医学がいまほど発達していなかったころ、医者ができることはしばしば、ただそこにいることでした。患者の病気が治せなくても、共感とともにいる人がいて、患者はいくばくかの救いを覚える。そこにいることが、医療者の役割でした。

 薬も技術もはるかに進歩したいま、医者の役割は一変したかのようです。でも精神科という分野では、本質的な進歩はないのではないか。たしかに抗精神病薬の効果は一定の範囲でめざましいけれど、感染症に対する抗生剤とちがって、精神科の薬は対症療法にすぎない。統合失調症やうつ病はいまだに原因も治療法も確立されていないし、摂食障害もおなじです。大多数の患者は「標準治療」で回復に向かうけれど、そこにはつねに一定の割合の難治性患者が残っている。
 彼らの治療を力づくで進めるのは「無益な医療」であり、患者がそう選択するなら緩和ケアというアプローチを真剣に考えるべきだとイエガー博士らは主張します。

 緩和ケアの、やわらかな共存。
 緩和ケアを求める患者のほとんどは、死にたいのではなく、これまでの方法でよくならないなら、死に対してオープンでありたいと考えている。ただ生きのびるための“意味のない治療”はひたすら耐えがたい、それよりは安らぎがほしいという患者とのやわらかな共存。医者ではなく、患者がいま何を求めているかによってケアは形作られる。
 緩和ケア、緩和精神科は、もっと広がっていいものでしょう。
(2024年1月12日)