地域の精神障害者・5

 精神科病院を廃止しようとしてきたアメリカでは、患者が路上にあふれるようになりました。
 一方、ひたすら精神障害者を病院に収容してきた日本では、EDPと呼ばれる人びと(emotionally disturbed persons=町中で大声を出すなど興奮している精神障害者)をほとんど見かけなくなりました。

 そういう日本の町が平和で安全でいいかといったら、ぼくはそうは思いません。
 ホームレスも精神障害者も見かけない日本の町は、なんだか異常です。それを異常だと思う方が異常なのかもしれないけれど。でもぼくは町中に「彼ら」の姿が見えないとさびしいし、不安です。考えてみれば不気味だとすら思う。

 ぼくはいま横浜市の郊外にある住宅街に住んでいます。
 ここでは北海道浦河町のように、いかにも“それらしい”精神障害者を見かけることがありません。数年前、近くのコンビニの外で崩れるように座って酒を飲んでいる人がいて、おお、ここにひとりアルコールの人がいたかと既視感に襲われたことがありました。でも彼はすぐにいなくなった。きっと警察がどこかに連れていったのでしょう。その一例以外、長年にわたってぼくがいる地域でEDPを見かけたことはありません。
 99%の住民は、そんな人たちはいないほうがいいと思っているでしょう。
 でもぼくにはそうは思えない。
 彼らがいない、“清潔で安全な町”が不安です。清潔不安妄想とでもいうのでしょうか。

 ニューヨークがいいとはいいません。
 アメリカの脱施設化は正しい方向だと思うけれど、施設に代わるシステムをつくらなかったのは失敗です。精神科病院に頼りすぎた日本と、失敗という意味ではおなじでしょう。
 けれど失敗からどうすれば抜け出せるか、日本の事態はずっと深刻に思えます。なぜならアメリカでは思いきった投資をすれば精神保健はよくなる、カネさえかければかなりの程度まで解決できると思えるからです。でも日本はそうではない。
 ぼくらの社会は百年にわたり精神障害者を隔離収容し、見えないようにしてきました。EDPのような精神障害者と出会う経験が、大多数の人でほぼゼロです。日本の都市では、EDPを見かけたらただちに施設に収容してしまう。精神障害者ととともに暮らす知恵も技法もほとんどないまま、清潔で平和な町ができている。そういう町では、精神障害者のグループホームをつくろうとすると異様なまでの反対運動が起こります。来るな、いなくなれと。この人たちの方がEDPではないかと思ってしまう。

 精神障害者は、地域のなかでどのように暮らすことができるか。その理想とはいえなくても実現可能なモデルのひとつは、浦河だろうとぼくは思っています。けれど浦河がメインストリームになる気配は、まだまだありません。
(2022年12月12日)